岩倉使節団の驚きのエピソードとは?その目的とルート
岩倉使節団とは明治4年11月12日から、
明治政府の重鎮や留学生達を含む、
計107名がアメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団の事です。
この写真は有名ですよね。
出典:goo.gl/LaiStq
団長は岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊東博文、山口尚芳という、
明治政府の錚々たるメンバーが参加しました。
平均年齢32歳の精鋭達です。
岩倉使節団エピソード
明治の日本は始まったばかり、これから国際社会に出る為には、
西洋の進んだ国づくりを学ぶ事が急務でした。
今日はこの岩倉使節団の目的、エピソード、
そして旅のルートなどを紹介します。
岩倉使節団の目的とは
岩倉使節団の目的は以下になります。
・幕末に欧米諸国と結ばされていた、不平等条約の改正の予備交渉。
日本で外国人が犯罪を犯しても、裁く事ができない事や、
輸入品に対して関税を自主的に設定できなかった。
※関税とは、輸入品に課せられる税金の事です。
安い外国製品がたくさん出回れば、
国内の物が売れなくなるなどの問題があります。
・西洋の文化や技術を学ぶ
・条約を結んでいる国の元首に天皇の国書を渡す
・留学生を派遣する
などがありました。
岩倉使節団のエピソードとは?
当時の明治天皇からの勅旨が見つかっています。
勅旨(天皇の命令が書いてある書の事)
そこには、これ以上関税で不利になる談判に応じない事や、
欧米諸国の文物や制度を研究する事が命じられた。
出典:goo.gl/eKgJV2
女子留学生もいた
107人の内訳は使節(国家や国の代表)46人、
随員(使節に付き随う人)18人、
留学生43人。
留学生のうち5人が女の子です。
しかも、若い!
上田悌子(16歳)吉益亮子(14歳)山川捨松(11歳)
永井繁子(10歳)津田梅子(6歳)の5人が留学生として参加した。
留学生の派遣期間は十年だったが、
このうち2人はすぐ帰ってきた。(翌年)
理由は体調不良となっているが、
ホームシックにかかって帰ってきたと言われています。
まだ、子供だから仕方ないですね。
いきなり半年間、無駄な時間が経過する
当初の計画では欧米諸国14カ国を回り、
10ヶ月で帰ってくる予定だったが、
実際にかかった期間は、1年10ヶ月。
これには理由があります。
最初に行った国は友好国のアメリカ、
岩倉達使節団は客人として大歓迎を受けます。
使節団は大統領 グラントに天皇の国書を渡す。
連日晩餐会に招待され、
その一挙手一投足が度々新聞に取り上げられました。
あまりの歓迎ぶりに、
これはチャンスと考えた伊東博文は、
アメリカとの間の不平等条約を、
改正する交渉を始める事を、皆んなに提案します。
「なんかいけそうな雰囲気じゃね?」
アメリカと交渉を開始するが、これが大誤算だった。
「いいよ」とアメリカは交渉する事にオッケーしたが、
アメリカは受け取った国書に、
あなた方が条約に調印する権利を持っているとは、
書かれていませんよと言ってきた。
条約に調印する為には、
国家元首から、その権限を委任されているという証拠が必要でした。
一行は、こうした国際外交のルールを認識していなかったのです。
伊東と大久保が日本に戻り、
天皇から全権委任状を取り付ける事になったが、
伊東と大久保利通がアメリカに戻った頃には交渉は終わっていた。
アメリカに戻ったのは半年後だった。
伊東と大久保の往復は、
全く意味がなかった。
イギリスで5億円がパア
ある銀行の関係者を名乗る人物から、
各自の所持金を銀行に預けないか?と持ちかけれらます。
銀行に預けると、
利子によって儲ける事ができるという話でした。
一行の多くはその人物の誘いを信じ25,000ポンド、
5億円にのぼる総額を託しました。
しばらくして、最悪の知らせが届きます。
お金を預けた銀行が、資金繰りの悪化で破綻したのです。
銀行に行ってみると、
お金は引き出す事は出来ませんという、
張り紙がただ一枚貼ってあるだけでした。
ビスマルクに学ぶ
出典:goo.gl/8mVEQL
ここまでは、最悪なエピソードばかりでしたが、
いい事もありました。
明治6年1873年3月7日,
使節団はドイツに到着します。
当時のドイツは二年前に統一国家が成立したという日本と似た様な境遇にありました。
ドイツはフランスなどの大国との戦争に勝利し、小国から大国に躍り出ようとしていた。
使節団の関心は1人の男にむけられる。
ドイツ宰相(さいしょう)オットー・フォン・ビスマルク。
ビスマルクはドイツ皇帝の補佐役として活躍した政治家です。
理想より現実を重んじ 戦争など強行手段もいとわぬ姿勢から、
鉄血宰相と呼ばれていました。
3月15日 首都ベルリンで使節団は、
ビスマルク主催の歓迎会に招かれる。
そこで、ビスマルクに様々な事を教えられました。
「大国は自分の国に利益がある場合は、国際法に従うが
ひとたび不利とみれば、軍事力にものをいわせてくる」
「そうした国際社会にあって、小国が主権を守る為には、
軍事力に頼る事が必要である」
「なぜなら それぞれの国が対等の力を持って
はじめてお互いが侵略せず 主権を守り合う
公明正大な国際社会が実現するからだ」
国際社会に参加したての日本の使節団は、
国際法をルールとして守る事が、
重要と考えていた。
ビスマルク流の現実に徹した外交術に刮目しました。
後に大久保利通はビスマルク先生らと出会ったことが、
最も有益な成果であったと語りました。
西郷隆盛への手紙には、
ビスマルクの事を大先生と呼んでいた。
大久保利通は明治天皇との関係は、
ビスマルクとヴィルヘルム1世との関係であるべきと、
常に意識していた。
また伊東博文はビスマルクの真似をして、
葉巻をくゆらせていた。
岩倉使節団のルートとは
では最後に、岩倉使節団のルートを紹介します。
日本の横浜からアメリカ西海岸サンフランシスコからワシントン。
大西洋を渡ってロンドンへ、
ロンドンからフランス、ベルギー、ドイツ、
ヨーロッパ諸国を回ってインド洋を経て横浜に帰着。
帰ってきたのは、明治6年、1873年9月13日でした。
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