尊王攘夷論、尊王攘夷論者とは?わかりやすく解説します。
幕末の時代劇を見ていたら、尊王攘夷論とか、尊王攘夷論者とか、攘夷派とかいう言葉が出て来るのですが、具体的によく分かっていない。
そこで、この機会に尊王攘夷又は、尊皇攘夷とも書くそうですが、
この言葉の意味を調べてみました。尊王攘夷とは何なのか?
どういつ意味なのか?
を出来るだけ分かりやすい言葉で解説しますね。
尊王攘夷論、尊王攘夷論者とは?わかりやすく解説
尊王攘夷(そんのうじょうい)とは?
尊王と攘夷が合体した言葉で、
尊王は天皇を尊び政治の中心とするという意味。
攘夷は外国を追い払うという意味。
この2つが合わさって尊王攘夷という言葉が出来ました。
天皇を尊び外的を斥(しりぞ)けようという思想を言葉にした政治的スローガン
尊王攘夷論者とは、この様な主張を行う人の事を言います。
では、何故この様な思想が起こったのかを解説します。
当時の状況
当時の幕末は、
日本国内は徳川幕府が牛耳っている。そして、日本は鎖国していた。
海外からは、
ペリーの黒船が来航して、「いつまで鎖国してんの?貿易しようよ!」とアメリカから開国を迫られていました。
日本に無い大きな船で日本にやってきたペリー達に日本はめちゃくちゃビビっていました。
「黒船すげー」「日本やべ〜」という感じです。
そのうち、アメリカやっつけないと!ナメられてるよ!
徳川に任せてたらダメじゃね?
このままじゃ外国にやられるぜ!何とかしないと!
そこで、登場したのが、尊王攘夷。
つまり、天皇を尊び政治の中心とする尊王と、
外国を追い払う攘夷が結びついた思想と言えます。
天皇中心でまとまって、外国と戦う派が尊王攘夷
そしてこの尊王攘夷の名の元に、開国に対する不安や不満が増えるにつれて幕府に反対する運動に発展し、建物を焼いたり外国の人や反対派を襲うといった過激なことを行う人々も現れました。
よく幕末の時代劇で見る光景、尊王攘夷派とそれに反対する人達が戦ったり、
していますね。新撰組とかは、徳川幕府側ですね。
更に詳しく解説
先ほども解説しましたが、きっかけは、1853年(嘉永6)のペリーの黒船来航です。
この黒船来航をきっかけに、当時の時勢状況下では鎖国は不可能だとする意見が出はじめ、
「弱肉強食の世界において列強に対抗するには海外膨張を実行する以外にない」という、
攘夷的開国論ともいうべき主張も展開されます。
そして、1858年(安政5)に日米通商条約が勅許を求めつつも無勅許で調印されると、
下級武士を中心として尊王攘夷運動が活発化されていきます。
(天皇はアメリカとの条約に反対していたが、天皇に無許可で条約を幕府は結んだ)
下級武士が幕藩制の政治機構とは離れたことにより、
このことは当時画期的な意味を持ちますが、ここでは攘夷の名の元に、
上記でもあったように、西洋人や西洋人用の施設の襲撃、
あるいは西洋船の打払いなどが盛んに行われるようになりました。
また、当時の朝廷では攘夷派の公家たちが優勢であったことから、
勅許を待たずに調印した条約は無効であるとして、
公家たちが幕府と井伊直弼を厳しく非難し、このことから朝廷と幕府との間の緊張が高まり、
安政の大獄や井伊直弼の暗殺で知られる、桜田門外の変(1860年)などの事件が発生し、
尊皇攘夷運動がさらに活発化し、日本は倒幕へと進んで行き、
明治維新を迎えることになります。