坂本龍馬暗殺の犯人はこいつだ!黒幕は誰だ?

2019年11月21日

幕末の英雄坂本龍馬が暗殺されたのは、

1867年12月10、

京都の河原町の近江屋で刺客に襲われてその場で即死した。

 

近江屋は、

四条河原町一帯に土地を持っていた、

井口家が営んでいた醤油屋です。

 

ここで坂本龍馬は命を落としました。

 

直後に駆けつけた土佐藩士、

田中光顕(たなかみつあき)の証言によると、

「眉間を二太刀深くやられ、脳漿が飛び出て早やこときれていた」

 

近江屋の証言によると犯人とおぼしき人数は7人、

客を装い店に侵入し、

遺留品は下駄と刀の鞘、その持ち主として、

新撰組の原田左之助が容疑者として浮上します。

 

しかし、原田は事件の当夜、

局長の近藤勇と会っていた事が分かります。

 

アリバイがあったのです。

坂本龍馬を暗殺した犯人は誰なのでしょうか?

実は色々な説があります。今日は色々ある説を紹介します。

 

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坂本龍馬暗殺の犯人はこいつだ!

幕府が殺した説

黒幕 松平容保

明治2年旧幕府軍と明治新政府軍が函館で戦いました。

激戦の末旧幕府軍は敗北し、

旧幕府軍の兵士2千人が捕虜となりました。

 

その捕虜の中の一人が驚くべき事を口にします。

 

「坂本龍馬を斬ったのは実は私です」(近畿評論より)

捕虜の名前は今井信郎(いまいのぶお)元京都見廻組

今井は幕末京都の警備を担当していた幕府組織見廻組の一員でした。

 

誰から犯行を命じられたのか?

 

取り調べは7ヶ月続きましたが、

今井は遂に明らかにしませんでした。

 

ところが、明治36年になって見廻組の組頭を勤めていた佐々木只三郎の兄が、

この様に証言します。

「命じたのは松平容保である」

松平容保は会津藩藩主、

事件当時、京都守護職をつとめていました。

出典:goo.gl/xcVY7C

龍馬は薩摩と長州の同盟を取持ち、

倒幕勢力を結集。

 

死の直前まで徳川幕府に変わる新たな政府を作る為に奔走していました。

幕府にとって龍馬は大きな脅威となったのです。

 

容保は即座に龍馬を拘束する様に命じます。

 

薩長同盟締結の2日後、

奉行所の捕り方100人が船宿寺田屋に潜伏中の龍馬を急襲、

しかし、捕り方二人を射殺されたうえ逃亡されてしまった。

 

その後龍馬は、幕府から攻撃を受けた長州藩に新式の武器を供用し、

長州藩を勝利に導きます。

 

更に将軍徳川慶喜に政権を朝廷に返上させる事に成功します。

 

大政奉還の直後龍馬の居所を容保は発見します。

 

容保は配下の見廻組佐々木只三郎を呼び出し、

龍馬殺害の命令を下した。

 

これが、黒幕 松平容保 実行犯 京都見廻組説です。

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薩摩が殺した説

黒幕 薩摩藩

龍馬の政権構想のトップは徳川慶喜です。

 

慶喜は幕府のトップの人間です。

その幕府が何故坂本龍馬を殺すのか?

という事で出て来たのが、薩摩藩黒幕説です。

 

龍馬は新政権の内大臣に徳川慶喜を座らせるつもりだった。

天皇が政権を取るのであれば、

265年にも渡って政権を担ってきた徳川に恩恵を与えても良いのでは?

と考えていた。

 

ところが、西郷は武力で幕府を討伐するという方針だった。

 

平和的に事を進めようとする龍馬の考えに猛反対だったのだ。

 

薩摩と長州を結びつける働きをした龍馬だったが、

もはや、薩長にとっては、龍馬は邪魔者に過ぎず、

西郷は龍馬の暗殺を行なったのです。

 

龍馬の暗殺後しばらくして、

誰が龍馬を暗殺したのかについて、噂になります。

 

肥後熊本藩の家老が龍馬暗殺の20日後に執筆した手記には、

こういう記述があります。

 

「坂本龍馬を暗殺したのは、薩摩の人間にちがいない」

当時から薩摩黒幕説は根強くあったのです。

出典:goo.gl/E3tV3T

また、前越前藩藩主の松平春嶽も

「薩摩藩が武力での倒幕に失敗した事を逆恨みしてやらせたと直感した」

と書状の中で語っている。

 

薩摩と見廻組との接点

最大の謎となるのが、幕府側の見廻組が何故、

反幕府の薩摩と繋がるのか?という事。

 

薩摩は一人の男に目をつけます。

 

見廻組組頭 佐々木只三郎は和歌の名手だった。

接触の為に起用されたのは、薩摩藩士 高崎正風。

高崎は和歌の達人と言われた人物でした。

 

高崎は佐々木の故郷、会津の歌会に潜入した。

 

更に薩摩は見廻組、渡辺篤にも接触する。

渡辺は見廻組の中でも屈指の剣の達人。

 

渡辺に接近したのは、

武道に秀でた薩摩藩士海江田信義。

 

海江田は京都の渡辺の道場に姿を現した。

見廻組の組頭の佐々木、そして、

見廻組屈指の剣客渡辺という、

龍馬暗殺で最も重要な人物への接触を薩摩は成功させた。

 

渡辺の記録によると、暗殺当日、

龍馬が近江屋にいる時間帯の情報が見廻組にもたらされている。

 

薩摩藩なら容易にできるはずです。

龍馬暗殺後、

今井信郎の助命措置を行なったのは西郷隆盛と言われている。

紀州藩が殺した説

黒幕 紀州藩

龍馬が殺される前に紀州藩とトラブルになっていた。

トラブルの原因は、「いろは丸沈没事件」です。

 

いろは丸沈没事件は、

海援隊が借りている船いろは丸(長崎港から大阪に向かっていた)と、

紀州藩の軍艦明光丸が衝突事故の事です。

 

この事件でいろは丸は海に沈んだ。

事故なんだから、片方が100%悪いという事はないはずだが、

賠償交渉で龍馬は徹底的に紀州藩を追い込んだ。

 

実際に積んでいたどうかは定かではないが、

武器や金塊など大量に積み込んでいた為、

大損害を被ったと主張、

更に紀州藩を批判する歌を庶民の間に流行させたりもした。

 

この賠償交渉は、ほぼ龍馬側の主張が通った形で決着した。

紀州藩が支払う額は、8万3526両198文(25億〜42億)となった。

 

そしてその後7万両に減額されて11月7日に支払われた。

龍馬が暗殺されたのは、その僅か8日後だった。

 


クレーマー坂本龍馬。いろは丸事件で7万両を奪いとった幕末最恐のクレーム顛末。

 

天満屋事件

龍馬を殺された海援隊は、黒幕を紀州藩と考えました。

海援隊は紀州藩公用人、三浦久太郎を殺害する事を決めた。

紀州藩も危機感を持っていました。

 

紀州藩は三浦の護衛を新撰組に依頼します。

 

新撰組からは、斎藤一や大石鍬次郎など7名がついた。

 

これに対して海援隊、陸援隊士16名が、

天満屋の二階で、

三浦と新撰組隊士が酒宴を行なっている所に乱入し修羅場となった。

 

三浦は顔に傷を受けたが生き残り、

新撰組側は2名が死亡、重傷者1人、負傷者3名を出した。

 

襲撃側は1名が死亡、2、3名が負傷した。

勝海舟が殺した説

黒幕 勝海舟

出典:goo.gl/xt263e

暗殺される前、龍馬は自分の身は安全だと思っていた。

その理由は幕府の若年寄、永井玄蕃頭(ながいげんばのかみ)。

 

永井は龍馬が実現させた大政奉還の理解者だった。

龍馬は幕府とも良い関係を築いていた。

 

この永井の進言で、

将軍徳川慶喜から龍馬に対して捕縛禁止の命令が出されていた。

 

将軍のお墨付きをもらっているので、

龍馬は殺されると思っていなかったという。

 

それを裏付ける様に暗殺当日も知り合いを部屋に上げている。

しかし龍馬は暗殺された。

 

捕縛禁止令が出ている龍馬を殺した暗殺犯、

これには黒幕がいる。

 

実行犯は京都見廻組。

実行犯が龍馬暗殺を告白しているのだから間違いない。

 

京都東山区にある霊山歴史館に、

龍馬暗殺実行犯に関する重要な手がかりがあるという。

 

それは、龍馬暗殺の実行犯である、

京都見廻組の桂早之助が親類書並びに由緒書がある。

 

これは、龍馬暗殺の人選の為、

その人間が信用するにあたいする人物かを判別する為に、

本人の親戚縁者まで調査しているのだ。

 

暗殺犯を選ぶ面接が行われていたというのだ。

 

つまり、龍馬を実際に襲撃したのは単なる手先にすぎない、

黒幕がいたという。黒幕は血縁関係まで調べて暗殺犯を選んでいる。

 

しかし、この面接を受けた形跡がない人物がいた。

 

それが、実際に龍馬を斬ったと告白した男、今井信郎です。

 

何故面接も受けていない今井が見廻組に入っていたのか。

 

今井信郎は元々江戸にいた。

しかし、幕府の命令で江戸から京都に来た。

 

わざわざ、江戸から見廻組に参加していたのだ。

 

龍馬暗殺後は静岡で収監されていたというが、・・・

 

実は収監されていなかったという、

とんでもない記録が出てくる。

 

静岡藩が人々の届け出をまとめた記録、「進達記録」

本当は静岡藩の留置所に入っているはずなのに、

静岡藩から給料を貰っていたという記録が出て来た。

 

毎月、金3両3部(現在の30万円前後)

龍馬を暗殺した人物に対して毎月支払われていた。

 

その様に取り計らったのが、勝海舟というのだ。

 

勝海舟と坂本龍馬は強い師弟関係で結ばれていたはず、

それが何故なのか?

 

坂本龍馬は勝海舟を裏切った

坂本龍馬の自筆の「新政府綱領八策」が残っている。

そこには、新国家での政策の方向が記された書です。

内容は以下となります。

第一義 天下有名ノ人材を招致シ顧問ニ供フ
第二義 有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷ノ官爵ヲ賜イ現今有名無実ノ官ヲ除ク
第三義 外国ノ交際ヲ議定ス
第四義 律令ヲ撰シ新タニ無窮ノ大典ヲ定ム律令既ニ定レバ諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ユ
第五義 上下議政所
第六義 海陸軍局
第七義 親兵
第八義 皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス

右預メ二三ノ明眼士ト議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云云
○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下萬民ニ公布云云
強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スル事ナシ

慶応丁卯十一月 坂本直柔

薩摩や長州をはじめ有力な大名にこの新政府綱領八策を提示していた龍馬。

 

後半にある〇〇〇の部分に入る名前について龍馬は、

選挙をして、皆に選ばれた人の名前を入れようと言ったというが、

実は龍馬は大政奉還の翌日に新政府の人事案を書いていた事が判明した。

 

幕末維新に関する記録を集めた「史談会速記録」

この中に坂本龍馬と尾崎三郎が練り上げた「新官制疑定書」がある。

 

その中に書かれている役職は4つ。

参議 議奏 内大臣 関白

参議は政治手腕があれば登用されるこの項目には、

坂本龍馬の名前はあるが、勝海舟の名前はない。

 

議奏は有力大名は藩主の中から選ばれる。

その次の内大臣、これは最高責任者、

現在でいうところの内閣総理大臣だが、

龍馬が新政府綱領八策で「〇〇〇」と言った人物だが、

坂本龍馬の内大臣候補は徳川慶喜と書いてあった。

 

なんと、

龍馬は徳川慶喜を新たな政府のトップにしようとしていた。

 

坂本龍馬は大政奉還を受け入れた慶喜を認めていたという。

だが、慶喜がトップであれば大政奉還をしても変わらない。

 

龍馬と勝海舟は新体制作りで意見が分かれていたのです。

 

また、勝海舟黒幕説が唱える根拠として、

勝海舟と実行犯の今井信郎は共に直心影流の流派で免許皆伝。

両者共に講武所で師範をつとめている。

 

この二人は以前から知り合いだったのだ。

 

最後に

という事で、実行犯は見廻組と分かっているのですが、

黒幕が色々な説があるんですね。

説の中で一番有力だと言われているのが、松平容保説です。

以上龍馬暗殺についてでした。

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Posted by マミ