西南戦争の原因とは?西郷隆盛の人気と人望が凄い!

2018年10月20日

幕末の英雄西郷隆盛は、かつて自分が作り上げた明治政府に反乱を起こしました。

それが西南戦争です。何故自分が設立に助力した政府に対して戦いを挑んだんでしょうか?

上野にある西郷さんの銅像は、着流しに犬を連れています。

この姿は明治政府から身を引いて、故郷の鹿児島に帰って、ひっそりと暮らしていた時の姿です。その後、この西南戦争が起こっています。

坂本龍馬や勝海舟などと徳川幕府を倒し、新しく作り上げた明治政府。

何故西郷はこの様な戦いをする事を決断したのか?今日は西南戦争の原因についてお話しします。

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西南戦争の原因

当時の西郷さんの境遇

明治維新の立役者

薩摩長州軍が幕府軍を破りました。それまで、徳川幕府が日本を治めていましたが、

徳川の兵を破って江戸へ進撃します。

この時旧幕府(徳川)の代表の勝海舟と話し合い、江戸城の無血開城を果たしたのが、

西郷隆盛です。

出典:goo.gl/FUod7d

徳川が新政府軍に徳川のシンボルと言える、江戸城を明け渡したんですね。

そして西郷は、明治4年に薩摩長州などの兵を元にして政府直属の軍隊を作る事に力をつくします。その後西郷隆盛は陸軍の元帥(げんすい)に就任します。

参議の地位にも就きました。

新しい政府でも重要なポストに就いたのです。

明治政府の汚職が横行する

新しくスタートした明治の新政府でしたが、役職に就いた者達が好き勝手な事を始めました。

官僚達の一部が商人達と結託して私腹を肥やす様になったのです。

いつの時代も汚い奴がいるのです。その汚職の例を挙げると、

山県有朋が関わっていたとされる山城屋事件、井上馨が関わっていた尾去沢銅山事件などがあります。ここでは、細かい汚職事件は省略します。

一方徳川幕府を倒す為に命をかけた士族達は、僅かな恩賞をもらっただけでした。

士族達の不満が爆発します。

「ふざけるな!こら!」

当然西郷も怒ります。

「命をかけて戦い作った、新しい明治政府は、好き勝手金を儲けて遊ぶ為に作ったんじゃない!」

「死んで行った人達に申し訳ないじゃないか!」

西郷はそんな輩を声をあげて批判したのです。



李氏朝鮮との外交問題で揉める

当時李氏朝鮮と日本は外交で揉めていました。

李氏朝鮮は鎖国していました。

李氏朝鮮は西洋列強の真似をして海外進出をしようとする日本を警戒していました。

日本と李氏朝鮮の間に緊張が生まれます。武力で李氏朝鮮を屈服させるという征韓論が日本国内で高まります。

鎖国している朝鮮を武力で開国させようぜ!と、

外国に出兵する事により士族の不満を外に向けようという動きも現れます。

(秀吉の朝鮮出兵と同じですね)

この問題で政府の意見は真っ二つに分かれました。

征韓論反対の中心人物は大久保利通でした。

ヨーロッパの視察を終えて西洋の凄さを目の当たりにして来た大久保利通は、

国力を養う事が優先と征韓論に反対します。

西郷の征韓論に対する意見はちょっと違います。西郷は武力ではなく、

話し合いをする事を目的に朝鮮に赴く事を提案して、天皇の許可を得ます。

戦争しに行くんじゃないと、あくまでも、話し合いに行くのだと、

西郷はその結果、朝鮮で殺される事になっても構わないという決意だったといいます。

しかし、西郷の追い落としを図る参議達によってこの提案はくつがえされるのです。

明治6年11月23日

西郷隆盛は参議の職を辞して政府を去ります。

「もう、辞めます。やってられないです」とは言ってないと思いますが、

故郷の鹿児島に帰ってしまいました。

静かに暮らしていたが

鹿児島県の日当山温泉、西郷隆盛はこうした山里を転々として暮らしていました。

その生活は質素そのものでした。

この時西郷の年齢は45歳、こうした山里で、愛犬を連れて狩りをしたり、

温泉に入ったりして過ごしていました。今後は静かに暮らそうと西郷は思っていました。

しかし、周りがそうさせてくれませんでした。

東京で軍隊や警察に属していた薩摩士族達が、

西郷を慕って集まってきたのです。西郷さん大人気です。

その数、なんと600人。

私学校を設立する

その西郷の元に集まってきた士族達を、西郷は学校を作り教育を始めます。

これが、私学校です。どんな教育をしていたかというと、生徒達は、山道を走ったりして体を鍛えたり、中国の古典を読んだり、銃や大砲の扱い方を習ったりしました。

西郷は自分が理想とする教育を私学校の生徒に施していきました。

出典:goo.gl/zrw5wD

西郷直筆の私学校綱領には、私学校設立の精神が書かれています。

その内容はというと、

天皇を尊び、人民を憐れみいつくしむのが、学問のねらいである。

一度国に難儀が起きた時は一身を顧みず国のためにつくさねばならない。

西郷は近代的な兵器の扱い方を士族達に教える事で、

日本が海外からの侵略の危機にさらされた時の守りの要にしようとしたのです。

あくまでも、この私学校の目的は、

他国からの侵略から日本を守るという目的の為に作られたのです。

そして西郷は私学校の生徒と土地を耕し鹿児島に根付く産業を育てようとしていました。

広い土地を開墾して畑にしました。

そして、職を失った士族達を飢えない様にしたのです。

西郷は生徒たちと同じ様に畑を耕して、食事なども一緒にとっていました。

ここでもまた、西郷の人柄を慕って、続々と士族が集まってきます。

その数なんと1万5千人。どんだけ人望あんねん!

人材も育ってきました。

私学校の幹部達は鹿児島県の行政にも参加する事になります。

そして、鹿児島の県政を担う様になっていきました。

明治政府西郷を警戒する

鹿児島で西郷を慕って集まってきた人達が、どんどん県政に参加する様になり、

外から見たら、鹿児島は独立国家の様に見えてきたのです。

これに対して明治政府は西郷を警戒します。ちょっと、西郷やばいんじゃないの?

と、それだけ明治政府の中の人達も西郷の力を恐れていました。

何か西郷はやるんじゃないか?

と、しかし、西郷は農地の開墾を続けました。

締め付けられる士族、そして各地で反乱

西郷が政府を去った後、大久保利通は中央集権化を進めていた。

中央集権化とは、権限や財源を中央政府に一元化される事を言います。

明治9年政府は次々と新政策を実施します。

この年3月に廃刀令が出されます。

廃刀令とは武士の魂とも言える刀を持ち歩く事を禁じる事です。

士族達には堪え難い事でした。

今まで、当たり前の事だったのに、いきなりご法度になったのです。

更に同じ年の8月に士族に与えてきた、家禄の支払いを打ち切る方針が発表された。

これを秩禄処分(ちつろくしょぶん)と言います。

士族達の収入は激減するのです。

「ふざけんじゃねぇ!」

こうなれば、当然士族に不満が貯まります。この年の秋に士族の反乱が相次ぎます。

神風連の乱(熊本)

秋月の乱(福岡)

萩の乱(山口)

士族達はブチ切れ、明治政府に対する不満はマックスになりました。

当然西郷のいる鹿児島でも同じ様に士族達の不満はマックスになっていました。

西郷は東京に部下を派遣し家禄の支払いを遅らせる様に嘆願させました。

大久保利通は、この申し出を受け入れ、

鹿児島だけに政府が支払う利息を高く支払う事を約束した。

西郷身を隠す、しかし・・・

西郷は日当山温泉に篭っていました。各地で起こる乱の事を聞いていたからです。

もし、皆んなの前に出ると、決起の旗頭にされていまう恐れがあるからです。

西郷は士族のシンボルの様な存在だったのです。

しかし、この時政府が余計な事をします。

政府が鹿児島の動向を探る為に20人以上の密偵を派遣していた事が分かったのです。

私学校の生徒達は、その密偵を捕まえてボコボコにします。

すると、何と密偵の潜入の目的が西郷の暗殺だと自白したのです。

自分たちのシンボル、カリスマとも言える西郷を暗殺するなんて、

許せるはずがありません。

「汚ねえ事してくれるじゃねぇか、明治政府さんよ・・」

明治10年1月29日、私学校の生徒達は遂にブチ切れて行動を起こします。

県内の施設を襲撃して、明治政府が差し押さえようとしていた、

大量の武器弾薬を奪いました。

2月1日に西郷の元に私学校の生徒が政府の武器弾薬を奪ったという知らせが届きます。

西郷は「しまった!」と口走ります。

そして、西郷は怒りました。何故そんな事を!

西郷遂に立ち上がる

明治10年2月3日、西郷は鹿児島城下に戻りました。

私学校の幹部達は反政府の旗頭となる様に求めます。

しかし、西郷は首を縦に振りません。

 

何とかこの状況を打開できないかと、

この年まで政府は反乱を起こした士族達を徹底的に弾圧してきました。

反乱を起こした私学校の生徒達もその様な目にあうのは目に見えています。

かといって、生徒達と政府に反乱を企てれば、

天皇に弓を引く事になってしまうのです。

天皇に弓をひくという事は逆賊になるという事です。

2月6日、私学校で会議が開かれます。

意見は分かれます。

西郷の暗殺まで仕掛けてくる政府に対して、兵を挙げるべきだ。

という意見と私学校の目的は外国の侵略から守る事で、

反乱を起こすのが目的ではないという意見に分かれます。

しかし、反乱派が「お前達は死ぬ事を恐れているのか!」という一言で場の空気が変わります。それからは、出兵賛成の合唱が沸き起こります。

そして、西郷に出兵の許可を求めました。

西郷の答えは二者択一です。

天皇の敵となり賊軍となるか?

生徒を犯罪人として政府に引き渡すか?

西郷が自分の生徒を引き渡せるはずがありません。

また、命をかけて明治政府に抗議しようとする若者たちを見捨てる事も出来ません。

西郷は静かに口を開きました。

「おはんらが、その気なら、オイの身体は差し上げ申そう」

西郷は自分の命を捨てる覚悟を決めました。

こうして、西南戦争は起こりました。

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