吉田松陰と坂本龍馬の関係とは?二人は出会っていたのか?

2019年11月21日

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吉田松陰と坂本龍馬は幕末に活躍した人物として、

様々な幕末を扱ったドラマや映画などに登場します。

 

人気もこの二人はダントツで、

インターネットで検索される検索数は坂本龍馬が1位、

吉田松陰が2位という、

人気者ツートップと言えるのではないでしょうか?

 

この二人にはつながりがあったのか?

また、無かったのか?出会った事はあるのでしょうか?

 

という事で今日は、

吉田松陰と坂本龍馬の関係について書いていきたいと思います。

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吉田松陰と坂本龍馬の関係

二人の共通点

結論から書きますが、松蔭と龍馬が会って何かを話し合ったとか、

幕末の日本に影響を与えたという記録はありません。

しかし、二人には共通点がありました。

 

吉田松陰が若い時に入門していた、

西洋砲術、兵学の師匠である佐久間象山の塾の門人録に、

吉田松陰と坂本龍馬の名前があります。

松蔭は寛永4年に入門、龍馬は寛永6年に象山の塾に入門しています。

象山という人は、当時ではかなり進んだ考えの人で、

日本で普通であれば、

自分が時間とお金をかけて学んだ事は余り簡単に人に教えないという風潮であったが、

自らが学んだ事を秘密にする事はなく、

惜しげも無く、自分の弟子に教えていた人だった。

 

そんな佐久間象山の元にたくさんの幕末の有能な人間が集まっていて、

松蔭、龍馬以外にも、勝海舟なども門人の一人となっています。

 

なので、ある時期吉田松陰と坂本龍馬は同じ師匠に教えを受けていたのです。

 

吉田松陰の生年月日は、1830年9月20日で、

坂本龍馬の生年月日は1836年1月3日、

龍馬が象山の元に弟子入りしたのが、

1853年なので龍馬17歳、吉田松陰はこの年は24歳になっています。

 

この1853年寛永6年にペリーが浦賀に来航した年です。

坂本龍馬は、剣術の修行の為に一年間の江戸自費遊学を土佐藩から許され江戸に来ていた。

桶町千葉道場で剣の腕を磨きます。

ただ、すぐには、象山の塾へは入塾していません。

 

龍馬が江戸に到着したのは、寛永6年の4月頃と言われています。

龍馬が佐久間象山の塾に入門したのが、寛永6年の12月1日と言われています。

一方松蔭はこの年、1月から諸国遊歴に出発しており、5月の24日に江戸に到着しています。

松蔭と象山は浦賀に黒船が来ると、

浦賀に二人は向かっています。

 

龍馬はというと、黒船が浦賀に来た時は、

土佐藩に臨時招集されて、品川にある土佐藩の下屋敷の警備にあたっています。

 

その後同年9月に松蔭は長崎に行ってロシアの船に乗り込もうとしたが、

失敗し、翌年の寛永7年にペリーが浦賀に再度来た時に小船で黒船に近づき、

乗りう移ろうとしたが、これも失敗して牢屋敷に投獄されていまった。

 

その後、出獄は許されたが幽閉処分となり、

翌年、松下村塾を現在の山口県の萩市で開くとそこには、

久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など幕末に活躍した様々な人材を教育したのです。

 

なので、坂本龍馬と松蔭は直接は交わりが無かったと思いますが、

松蔭の教え子とは対面しています。

久坂玄瑞を龍馬は尋ねて会っています。

 

またその後坂本龍馬は藩を脱藩したので、

久坂玄瑞が坂本龍馬へ何らかの影響を与えたのでは?とも言われています。

 

また、伊藤博文も坂本龍馬に会い、

彼を評価する言葉を残していますし、

高杉晋作も坂本龍馬に拳銃を贈ったと言われており、

彼が襲撃された寺田屋事件では、この贈られた銃で自分の身を守ったそうです。

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Posted by マミ