応仁の乱を超簡単にわかりやすく解説、人気が無いけど重要な時代だぜ

2018年11月8日

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応仁の乱を超簡単にわかりやすく解説

応仁の乱を超簡単に解説し、その内容を知っていただく記事です。

受験勉強などで「意思むなしい応仁の乱」などと年号暗記をした方も多い応仁の乱は、

1467年に京都を中心に東西の勢力に分かれて戦った大規模な内乱でした。

この内乱の結果日本は戦国時代に突入していくことになり、

まさに日本の歴史を変えた重大な事件となっています。

 

応仁の乱とは

室町時代に発生した、将軍家の後継者争いを発端に、

様々な要素が絡まり合って起こった内乱(戦争)

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起こった時期

1467(応仁元)年〜1477(文明9)年に京都で起きた戦乱「応仁の乱」。

 

この年号の覚え方、小学校で「人よ空(むな)しい応仁の乱」と習った方も多いかと思います。
なぜ、人よ空しいのか。
それは戦乱の末に、イイコトが何も無かったからです。

 

戦国時代に突入する原因となった戦い。

 

みんなが知っている、織田信長や武田信玄などが、

登場する一つ前の時代ですね。

 

戦っていた期間

11年間

勝敗 決着付かず終息

 

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応仁の乱が起こった原因は将軍の跡目争い

応仁の乱に至る経緯としては、

そもそもは室町幕府第8代の足利義政の後継争いでした。

 

義政は妻の日野富子や側室に子供ができないことから、

弟の義視を仏門 から還俗させて自分の後継者にしました。

 

ところがその後富子に子供が生まれたため、

富子と義視の間で後継者争いが勃発し、

さらに管領の細川勝元と大大名の山名宗全の対立や、

名門畠山氏の内紛なども加わって大規模な内乱に発展しました。



応仁の乱の中心人物

総大将は、
東軍・細川勝元(かつもと。武将、守護大名で官僚。1430〜1474年)と
西軍・山名持豊(もちとよ。武将、守護大名。1404〜1474年。出家して宗全を名乗る)。

将軍家・室町幕府8代将軍足利義政の跡継ぎ争いに、守護・畠山家と斯波(しば)家それぞれの家の兄弟の家督争いが加わったことです。

場所は、京都を中心はじまりましたが、
合計25〜27名の兵が11年に渡って合戦を行ったため、次第に地方へと広まって全国的内乱となりました。

内乱の内容

この内乱の主力戦力は、足軽(浪人や農民といった雇われ兵)でした。
そのため、彼らは自分が得する方へ寝返ったり、屋敷や商家に火をつけたり、盗みを働いたりと、京都の町は無法地帯になったと言います。

武士の屋敷は焼かれ、重要な寺社建築や宝物が焼けて、京の都は焼け野原になります。
復興には多大なお金と労力が必要となりました。

 

戦国時代の扉を開いたきっかけ

将軍家の跡継ぎ争いは、
弟・義視(よしみ)を跡継ぎにしようとした将軍・義政と、
後に実子・義尚(よしひさ)を生んだ義政の妻・日野富子の間で起きました。

しかし、義政は後に義視の後見を止めて、日野富子と義尚と共に細川勝本につきます。

このように将軍事態の立ち位置もあやふやだったためか、
すっかり将軍の権威は失われて、室町幕府は無政府状態になってしまいました。

細川勝元は天皇家・将軍家を味方につけて23か国の守護大名から戦力を集めました。
一方、山名持豊は義視を将軍に立てて、

中国地方からも兵力を集めて、20か国の守護大名を従えます。

このような状況下で、守護大名や武士が将軍の命令に従うことも当然なくなり、
結果、下剋上の戦国世へと突入して行くことになったのです。

 

各総大将・勝元と持豊が亡くなり、

細川・山名両家の息子へと継承された後、

11年続いた戦乱は平定したわけですが、
応仁の乱のあとに残されたのは、
”都京都の荒廃”と”下剋上の戦乱時代への突入”
という、動乱の不安定な世の中へ導くという結果にしかならなかったのです。

よって、
1467年〜人よ空しい〜応仁の乱

日本での認知度と人気

内乱が大規模かつ長期間(10年)におよんだことにより室町幕府の統制力は弱まり各地に群雄が割拠する戦国時代に入っていきました。
戦国時代は下剋上の風潮の中それまでの日本の価値観が一変した時代であり、日本人の精神構造を大きく変えた時代でもあります。

このようにそれほど日本人の 精神性に多大な影響を与えた戦国時代を作りだした応仁の乱ですが、一方で日本の他の重要な戦いに比べるとあまり人気が高くないのはなぜでしょうか。

 

もちろ ん単なる知名度というだけならその名前を知っている方も多いでしょう。

 

しかしこれほど重要な戦いにも関わらず、

応仁の乱の内容まで知っている方はあまり多くないのではないでしょうか。

 

応仁の乱を扱ったNHKの「花の乱」も視聴率では低いものでした。

出典:goo.gl/4rsbwc

応仁の乱の不人気ぶりは際立っています。
このような応仁の乱の不人気ぶりにはいくつかの要因があるでしょう。

例えばこの内乱が10年もの長期にわたりしかも中断を挟むなど継続して戦闘を行ってい たわけではないこと、敵味方がくるくる変わり複雑であること、

次の時代である戦国時代の人気があまりにも高くどうしても影が薄くなることなどなど。

 

不人気でなんも良かった事が無かった乱

ただ私は日本の歴史の中でも応仁の乱はトップクラスに重要で、

かつ面白い時代であると思っています。

 

先ほども述べた通りの応仁の乱から戦国時代かけては、

日本人の精神性が劇的に変化する時代であり、

日本の歴史を俯瞰すればここを歴史の転換点として時代区分を行ってもよいほどの、

重大な事件です。

 

また一方で10 年もの長い間離合集散を繰り返しながら戦ったという、

その間の各勢力の複雑な動きは、

裏を返せばそれだけ物語としての面白さを兼ね備えているとも言えます。

 

応仁の乱は確かにわかりにくいところはありますが、

それを超えて応仁の乱の世界に入っていくとその世界に魅了されると思います。

 

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