大久保利通暗殺の状況とは?暗殺の刀は警視庁が保管

2019年11月21日

大久保利通暗殺状況と暗殺の刀

幕末の英雄として知られる大久保利通は、1878年の5月14日に暗殺されました。

その暗殺はどんな状況で起こったのかについて書きたいと思います。

大久保利通を暗殺したのは、

不平を抱く氏族の6名で名前も動機も分かっています。

 

殺された大久保も可哀想ですが、

馬車を運転していた人も一緒に殺されているので、気の毒な事件です。

 

また、大久保利通暗殺の時に使われた刀も残っていて、

霞ヶ関の警視庁に今も展示されています。

今日はそんな事件についてのお話しです。

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大久保利通暗殺はどの様な状況で起こったのか?

暗殺の状況

出典:goo.gl/y6hDwh

(大久保利通が当日乗っていた馬車)

大久保利通暗殺が起こったのは明治11年の5月14日、時間は午前8時30分、

大久保利通は二匹の馬が引っ張る馬車で移動していた。

大久保は明治天皇に謁見するために、赤坂仮皇居に向かっていたところでした。

 

紀尾井町の清水谷に差し掛かった時、

6名の人間が大久保利通の乗る馬車に駆け寄って、

いきなり襲いかかった。

 

大久保を待ち伏せしていたのだ。

 

まず、刀で馬車を引っ張る馬の脚を切った。

足を斬られた馬はその場に倒れて、馬車は停止した。

 

そして次に馬車を操縦していた中村太郎に刀を突き刺し殺した。

中村は喉を刀で突かれた。中村は死亡した。

 

馬であろうが馬車の運転手であろうが、

邪魔だから殺すし斬るという、一切の情けがない攻撃です。

 

そして、今度は馬車に乗る大久保利通を引きずり出します。

 

引きずり出される大久保は、「無礼者!」と一喝しますが、

それに怯まず、大久保の頭に集中して刀で斬りまくった。

 

大久保が受けた刀傷は、全身に16箇所にもおよび、

その半数は頭部に集中していて、頭は割られ脳が見えていた。

 

そして、最後のとどめは倒れた大久保の首に刀を突き立て貫いた。

その刀は地面に突き刺さった。




大久保は息を引き取った。

大久保の死亡を確認すると、

犯人達は刀を捨ててその場を立ち去った。

 

現場に証拠を残したのは、

最初から捕まるつもりだったと考えられます。

犯人である6人はその日のうちに自首した。

 

自首すれば生きて帰れるとは思っていなかったと思われるので、

暗殺者達も命をかけて行った事です。

恐ろしいです。

暗殺現場、現在はどんな場所?

暗殺された場所は紀尾井町清水谷です。

紀尾井坂の目の前で起こった事件なので、

この暗殺事件を「紀尾井坂の変」と呼びます。

紀尾井の地名は、ここに紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があったので、
その頭文字を取って紀尾井となりました。

 

現在ではこの場所は千代田区紀尾井町清水谷という地名になっています。
尾張徳川の屋敷があった所に上智大学があります。

 

清水谷公園には紀尾井坂の変の碑が建てられています。

この碑は明治21年に西村捨三、金井之恭、奈良原繁(大久保と関係が深かった政治家や官僚)などによって建てられた物です。

 

馬車

出典:goo.gl/RPzzS7

大久保利通が暗殺された時に乗っていた馬車は、

岡山県倉敷市の五流尊龍院に保管されています。

 

五流尊龍院は修験道の総本山です。

 

ここの五流会館という本殿と棟続きの場所にあります。

 

ここにある理由は、大久保利通の子孫が永代供養のため奉納したそうです。

 

大久保利通が使っていた時はガラスの窓が付いていました。

座席部分は革製です。

 

因みにイギリス製だそうです。

 

襲撃の時の刀の傷も残っていますね。

 

 

 

住所:倉敷市林962

大久保利通を殺した刀

大久保利通を殺した刀として、霞ヶ関の警視庁に展示されています。

出典:goo.gl/vb5jEu

警察参考室がそれで、警察が出来て以来の資料1000点が展示されていて、

その中に大久保利通を暗殺した時に使用された主犯格の島田一郎の刀があります。

写真を見ると、先が折れていますね。

一説には大久保に止めを刺した時、

地面に突き刺さって折れたとも言われていますね。

大久保を殺した犯人はどんな奴らだ

主犯格 島田一郎

長連豪

杉本乙菊

脇田巧一

杉村文一

浅井寿篤

この人達は明治政府に不満を抱く元士族の人たち。

士族のシンボルとも言える西郷隆盛が西南戦争を起こしますが、それを機に大久保利通の暗殺をしようと6人で盟約を結んだと言われています。

大久保利通を暗殺した理由

大久保を暗殺した理由として、捕まった時に斬奸状という物を島田達は持っていました。

そこに書かれていたのは、

国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。
法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。
国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。

という内容だったのです。

ようするに、大久保はろくに仕事をせずに私腹を肥やしている。

死んで当然の奴だという事でした。

しかし、実際の大久保は清廉潔白な人で、

公共事業を自分のお金で行うなどしていた人でした。

 

その為お金はすっからかんだったそうです。こんな政治家いますか?

なので、全くの誤解で大久保利通は殺されたとしか言いようがありません。

 

また、この暗殺犯達を裁いた判事玉乃世履は、

主犯格の島田以外なぜ大久保利通を殺さなければいけなかったのか?

 

という事を知らずに犯行に加わっていて、

「こいつを殺す事が国のためになる」と言われて、

それを信じて大久保を殺したと思われると語っています。

 

境遇が似ていて意気投合した6人、

士族を蔑ろにする明治政府に打撃を加えてやる!と、そんな気持ちでいる時、

リーダー格の島田が、明治政府の内務卿である大久保利通!こいつがガンなんだ!

こいつを殺そう!と提案。

 

他の5人も、大久保の事はよく知らないが、

そうか、よし!大久保を殺そう!

という流れで大久保を暗殺したという事でしょうか。

殺された大久保利通の懐には生前の西郷隆盛から送られた手紙が入っていたと伝えられます。

大久保が持っていた手紙の内容

紀尾井坂の変の時、大久保は西郷隆盛からの手紙2通を持っていました。

持っていた理由は、西郷からの手紙を三条実美が見たいと言ったので、
手紙を貸していて、それが三条から手元に戻ってきた物を、

ずっと2、3日大久保は持っていたそうです。

一通目は明治元年1月22日のもの。

鳥羽伏見の戦いの前に、外国人が王政復古を悪い様に本国の政府に伝えない様に、

説明してくれという内容。

もう一通は大久保利通が岩倉使節団で、サンフランシスコに行った時に撮影した写真と、

手紙を西郷に送ったのですがその手紙への返事。

 

西郷は大久保の西洋かぶれしたヒゲ面を茶化して、

「もう写真を撮るのはやめなさい」と手紙に書いた。

 

大河ドラマ西郷どんに隆盛が大久保から便りを貰って写真を見て、

「何だこの髭、みっともない」という描写がありましたね。

その時書いた手紙ですね。

大久保利通をもっと知る


日本史上最高の英雄 大久保利通

 

 

 

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Posted by マミ