徳川慶喜が大政奉還した本当の理由とは?大久保利通達もビックリ!

2019年11月21日

江戸幕府最後の将軍徳川慶喜が行なった大政奉還。

 

昔教科書で見た絵には、居並ぶ諸大名を前に、

苦渋の決断を下す幕府軍の敗者、慶喜の姿を見た記憶がないでしょうか。

 

江戸末期、幕府の権威は失墜(しっつい)し、

新政府軍の前に白旗を上げて、泣く泣く政権を手放した人。

そんな見方がされていたのですが、実際の慶喜はどんな人だったのか?

 

研究により実際の慶喜像が分かってきた今日、

今までとは全く別の見方や評価をされる様になってきたのをご存知でしょうか?

 

今日は徳川家最後の将軍、徳川慶喜が行なった大政奉還はどんな理由で行われたのか?

そして、大政奉還の当日の様子が実際にその場にいた人の証言から明らかになっています。

その様子もお伝えします。

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徳川慶喜が大政奉還をした理由と当日の様子

大政奉還した理由

大政奉還とは、慶応3年10月14日に、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が、

政権の返上を明治天皇に上奏して、翌日の15日に、

明治天皇が上奏を勅許した出来事の事です。

 

徳川慶喜が大政奉還をした理由は何なのか?

実は徳川慶喜はとても優れた人物だった。

徳川慶喜に脅威を感じて、その存在を消し去ろうとした人達がいます。

 

薩摩藩士の西郷隆盛(さいごうたかもり)、

大久保利通(おおくぼとしみち)、

公家の岩倉具視(いわくらともみ)らの面々、いわゆる武力倒幕派です。

 

この人達の目的は武力で徳川幕府を倒すのが目的です。

大久保利通達らは、武力で徳川幕府を倒す大義名分を作る為に、

秘策を編み出します。

 

それが「倒幕の密勅」(とうばくのみっちょく)です。

出典:goo.gl/Sn6Czu

その内容は、「日本を滅ぼしかねない逆臣慶喜を殲滅せよ」というものでした。

 

大久保利通らの朝廷工作によって、武力蜂起(ぶりょくほうき)の極秘命令が下されました。

(大久保利通達が朝廷に働きかけて、慶喜を討てと天皇が命令を出した)

これによって、幕府軍が逆賊(反逆者の意味)となり、

大久保達が官軍となり幕府に戦争を仕掛ける口実になります。

 

しかし、慶喜は驚愕の決断を下す。

 

大政奉還です。



この大政奉還は大久保達の大義を失わせてしまいました。

将軍自ら政権を天皇に返上し、

倒すべき幕府そのものを失くしてしまったのです。

 

その結果、倒幕の計画は中止になった。

 

そして、幕府の敗北宣言だと思われていた大政奉還だが、

実は慶喜は全く別の事を考えていた。

 

慶喜がその時朝廷に政権返上を申し出た建白書には、

慶喜は政権をお返しするのは、

日本を海外列強に並び立つ国家に生まれ変わらせる為だと上奏、

「これからも、国家の為に尽くせるのなら、これに勝る喜びはありません。

全国の諸大名にも、将来の国づくりに意見のある者はこの慶喜に申し出る様、

命じてあります」

「政権を返上しても、これまでと同じ様に国政に携わり、

諸大名からの意見も自分が取りまとめて行く」と書かれている。

 

つまり、これまでの幕藩体制を維持した新体制を朝廷に訴えていたのです。

(政権は朝廷にお返しします。国内の事は私がまとめていきますので、

安心下さいと、要するに今まで通りという事ですね)

慶喜は大政奉還によって、武力倒幕派を押さえ、

尚且つ天皇にも恩を売り、新しい新政府の中心に収まろうとする。

 

大政奉還は単なる敗北宣言ではなかったのです。

 

慶喜、思っていた以上に相当したたかな人物の様です。

大政奉還の図の間違い

出典:goo.gl/VdRwEV

この絵は誰もが一度は見た事のある絵ではないでしょうか。

慶喜「皆んな、ごめん、もう無理、俺幕府やめるわ」

皆んな「ははーっ」

これが、将軍幕府やめるってよを表した、「大政奉還の図」と呼ばれる錦絵です。

作者は邨田丹陵(むらたたんりょう)

この絵は大政奉還の前日に二条城の二の丸大広間に集められた、

各藩への通達の様子と言われてきました。

 

真ん中奥にいるのが、徳川慶喜と思われます。

しかし、各藩への通達の時、

この様なシーンは実際には無かった事が分かっています。

 

これを調べたのが、仏教大の青山忠正教授です。

当日ここにいた人が文書(寺田家文書)を残していたのです。

 

その文書を書いた人は、

新発田藩の京都留守居役を務める寺田喜三郎という人物です。

 

当日どの様な流れだったかというと、

10月の13日(大政奉還の前日)に、

二条城の大広間に約40の藩の重臣50人が集められる。

 

老中板倉勝静が事前に慶喜から預かっていた、

大政奉還の草案を皆んなに配る。

 

草案が皆んなの手元に渡ったら、

中板倉勝静が「何か言いた事がある者は、腹を割って意見を言っていいよ、

将軍が直々に聞くから」と言った。

 

で、解散となり、そこに残ったのは、

小松帯刀(薩摩藩)
福岡孝弟(土佐藩)
後藤象二郎(土佐藩)
辻将曹(芸州藩)
牧野成憲(岡山)
都築荘蔵(宇和島藩)

の6人、後の人は全員帰りました。

 

考えてみれば、いきなり呼び出されて、

いきなり大政奉還の草案なんて渡されても、

ほとんどの人はポカーンという状態だったのではないでしょうか。

 

なので、たくさんの人の前に徳川慶喜が出てきたという事は無かったんですね。

実際に慶喜に会ったのは6人だけなんですね。

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Posted by マミ