関ヶ原の戦いは人数は何人で戦って何人死んだのか?

2019年11月21日

関ヶ原の戦い、天下分け目の戦い、日本で一番有名な合戦関ヶ原。

この戦いは、西軍石田三成、東軍徳川家康が、

それぞれ大将となって戦った大きな戦です。

 

この戦いは東軍の徳川勢が勝利したのは余りにも有名ですが、

この戦いに一体何人の人が参加したんだろうか?

 

また、何人位死んだのでしょうか。

 

という疑問が湧いてきたので、関ヶ原の戦いがあった、

慶長5年9月15日に時間を戻して、

どんな様子だったのかも含めて振り返っていきたいと思います。

スポンサーリンク

関ヶ原の戦いの参加人数と死者

関ヶ原に西軍、東軍が集結

関ヶ原は美濃国不破郡に位置し、かつては不破関(ふわのせき)があった。

北に伊吹山系、南に鈴鹿山脈が裾野を広げ、西に今須山、

東に南宮山をひかえて東西約4キロ
南北約2キロの高原盆地です。

 

この中を中山道が貫通し、東は木曽路、西は近江より大坂に通じ、
中央の分岐点より西北へ北国街道、

東南へ伊勢街道と東西をつなぐ交通の要衝だった。



 

西軍

慶長5年9月15日関ヶ原への一番乗りは石田三成隊6000人

これが午前一時ごろで、
まっすぐに西北の奥まで進んで、笹尾山のふもとに陣を構えた。

 

関ヶ原周辺には兼ねてより野営軍勢もいた。

西南の山中村辺りには、

大谷吉継勢4100人戸田重政勢平塚為広ら合わせて1500人。

 

南宮山には毛利秀元を中心に、

長宗我部盛親吉川広家安国寺恵瓊長束正家30000人余り。

そして松尾山には小早川秀秋15000人

その近くの平野には脇坂安治1000人小川祐忠2000人。

600人朽木元綱赤座直保600人

 

三成に続いて到着したのは、

島津義広1500人、三成勢の近くの小池村に布陣しました。

 

三番手の小西行長勢4000人は島津勢の右手に陣取り、

最後に到着の宇喜多秀家勢17000人余りは、天満山の前に5段構えの布陣。

かくして、85000人とも100000人とも伝えられる、

西軍の総勢が関ヶ原に集結したのは午前四時頃です。

出典:goo.gl/mNwxix

 

東軍

対する東軍は、

東軍の先鋒、福島正則勢6000人が到着したのは午前5時ごろです。

深く前進して天満山宇喜多秀家勢と対峙しました。

中山道の北に田中吉政3000人筒井定次2800人、南に藤堂高虎2500人京極高知3000が布陣。

二番手、細川忠興5000人加藤嘉明3000人は北国街道沿いに、
黒田長政5400人は丸山に布陣。

三番手は徳川勢で松平忠吉3000人井伊直政3600人

本多忠勝500人、古田重勝1000人織田有楽450人

遊撃部隊として寺沢広高2400人金森長近1100人生駒一正800人

徳川家康率いる20000人は桃配山に、

更に南宮山の毛利勢に備えて、池田輝政4500人浅野幸長6500人山内一豊2000人
有馬豊氏900人

東軍の総勢は75000人とも100000人とも伝えられている。

総大将徳川家康が桃配山本営に陣取ったのは午前6時です。

関ヶ原戦死者数は?

両軍は早朝に対峙した。

霧が濃かった為に、2時間も動かず対峙していたと言われています。

やがて開戦となり、最初から半ばにかけては、

西軍の中心となる部隊の士気が高かった事もあって、

両軍互角の戦いが続いていたと言われています。

戦局が動いたのは小早川秀秋の15000人が裏切って、

東軍に寝返った事から一気に西軍が劣勢となって東軍が勝利したそうです。

戦いは僅か6時間で終了しました。

 

この戦いでの死者の数は諸説ありますが、

旧帝国陸軍編纂「日本戦史・関ヶ原役」では、8000人余、

近衛前久書状には4000人〜5000人という記述があり、

はっきりした人数は分かっていません。

 

東軍が勝利しましたが、

東軍の人も相当な数死んだんじゃないか?と言われていますね。

(スポンサーリンク)




おすすめ記事

おすすめ記事:明智光秀の家紋の意味【色や由来】日光東照宮の家紋の正体

おすすめ記事:日本刀や槍の名前がかっこいいし面白い、由来も紹介

スポンサーリンク

歴史

Posted by マミ