征韓論とは 簡単に分かりやすく解説、西郷と大久保が対立!
征韓論(せいかんろん)とは何なのか?
という事を分かりやすく、
簡単に理解したいという方の為に解説したいと思います。
理解する事を目的とする為、細かい部分は割愛します。
歴史は解釈によっては違う見方が出来たり、
別の説があるとか、細かい事を言い出したらキリがないので、
その辺りはご了承くださいね。
で、
当時この時代は徳川幕府が無くなって、
明治新政府の元、新しい時代に突入していました。
明治政府の中心にいた人物は西郷隆盛や大隈重信、板垣退助らです。
この時期その他にもメンバーがいたんですが、
岩倉具視を中心に、
大久保利通や木戸孝允、伊藤博文などはアメリカ、
ヨーロッパなどを訪問していました。
新しい政府を作らにゃいかん、
世界を見てくるぞ!
という事で政府の首脳のメンバーがたくさん海外に行ったのですが、
その留守を預かっていたのが、
西郷隆盛や大隈重信、板垣退助らだったのです。
その時政府の留守を守っていた西郷隆盛や板垣退助らが唱えたのが
征韓論だったのです。
征韓論とは簡単に分かりやすく言えば何なの?
征韓論とは?
出典:goo.gl/CP6AtA
征韓論とは?と検索してみると、
武力を持って当時の朝鮮を開国させるという主張の事を征韓論という。
当時の朝鮮は鎖国していたのですね。
この時の朝鮮は400年以上続く王朝でした。
この時の朝鮮の事を李氏朝鮮とか朝鮮王朝と呼びます。
何故朝鮮に開国を求める主張をする人が出て来たのでしょう。
当時朝鮮の位置付けは中国(当時の清)の子分の様な存在でした。
朝鮮は日本の徳川幕府と交流してはいました。
日本は徳川幕府が倒れ、明治政府になり、
天皇中心の新しい国家になりました。
リニューアルした日本は、
「日本は新しくなりましたよ、徳川ではなく、天皇が中心となってやっていきますよ。
よろしくね」という事で朝鮮に日本政府は国交を結ぶ提案をしますが、
朝鮮は国書の受け取りを拒否しました。
日本から朝鮮に数回提案するも、朝鮮は拒否。
朝鮮は新しい日本に対して、いい感情を持っていなかったのです。
日本ごときが生意気な!
日本が持っていった書簡に朝鮮が気にくわない文言があったという事で、
清(中国)が使う言葉を周辺国である日本が使ってんじゃねぇよ!ザコが!
鎖国してるんだから、ほっといてくれよ!
開国を迫るって、欧米列強の真似してんじゃねぇよ!
欧米か!
と言って朝鮮は日本に対して不快感を示しました。
という事で朝鮮だけが日本を国と認めていなかったのです。
迫り来るロシア
当時ロシアは南下政策と言って、南の方にどんどん領土を広げていました。
カムチャッカ半島を占領し、遂にウラジオストクまで来た。
出典:goo.gl/5Y27wU
朝鮮まで入ってきたら、次は日本がやられるのは間違いがない。
当時は今と違って、弱い国は侵略されて植民地にされていたのです。
「朝鮮よ!すぐそこまで、ロシアが来てるじゃないか!やられるぞ!」
「鎖国してる場合じゃないぞ!」
という事で、ここで征韓論を唱えるわけですね。
そんな事言っても、朝鮮は状況を理解できず、日本に対しては、
「うるせぇ!」とつっぱねました。
西郷と大久保の対立
西郷隆盛は武力で開国を朝鮮に求めるのではなく、
話し合いで開国を求める為に、「ワシが行く」と言い出します。
戦争じゃなく、あくまでも話しをしに行くという事で、西郷は決断した。
西郷はこの時死ぬ覚悟をしていた。交渉がこじれて殺されても、かまわんと。
海外視察から帰ってきた大久保や岩倉具視達の考えは違いました。
大久保達の考えは、「今は内政を整える方が優先です、
国内の事に集中しましょう」と西郷の朝鮮行きを真っ向から反対する立場を取った。
もし、西郷が殺されたら、戦争になる、日本に戦争している余裕はないと、
また、西郷が殺されるのを止めたかったのかもしれません。
そして、最終的に西郷の意見は却下された。
西郷や板垣といった征韓派は辞表を書いて国に帰った。
参議の半数が辞め、官僚600人が辞職した。
征韓論をもっと知りたい
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西郷「征韓論」の真相―歴史家の虚構をただす