西郷隆盛最後の場所と最後の言葉とは?切腹したのか?

2019年11月21日

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西郷隆盛最後の場所と最後の言、葉切腹は?

西郷隆盛は265年続いた徳川幕府を倒し、明治維新を成し遂げました。

新しく誕生した明治新政府でも、次々と改革を行い、

日本の近代化に大きく貢献しました。

 

しかし、征韓論で大久保利通らと対立し、

西郷は政府の役職から身を引いて、

故郷鹿児島でひっそりと暮らしていました。

 

そんな西郷の元には西郷を慕って、

薩摩出身の士族達がどんどん集まってきました。

 

西郷はそんな行き場のない士族達を教育する為に、

私学校を設立します。

 

一方、明治政府は日本の近代化を進める事を目的に廃刀令を発令、

武士の魂とも言える刀を取り上げました。

 

これに対して、士族達は反発。

各地で反乱が起こります。

 

西郷の元に集まった士族達も、

立ち上がろうと西郷に訴えます。

 

西郷は私学校の生徒達に押され、

明治政府と戦う事を決意し挙兵します。

「おはんらがその気なら、おいの身体は差し上げ申そう」

 

西郷はこの時、

自分を慕って集まった士族達と一緒に死んでやる事を決意します。

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西郷隆盛の最後

西郷隆盛の最後の場所

西郷隆盛は明治政府と戦う為に、挙兵します。

西郷軍30000人が反乱の狼煙を上げた事を知った明治政府は、

直ちにこれを鎮圧する為に、兵を送ります。

 

戦いは壮絶なものとなりましたが、

数で勝る政府軍が西郷軍を追い詰めていきます。

 

追い詰められた西郷軍は旧鶴丸城の後ろに聳える、

城山を占領して、土で防波堤を作り、陣地を作りました。

 

しかし、政府軍は更に兵を増やし城山を何重にも包囲しました。

 

城山は鹿児島市の市街地の中心部に位置する小高い山です。

標高は107メートルです。

 

明治10年(1877年)9月24日

政府軍は城山に向かって集中砲火を始めます。

西郷達は覚悟を決め、城山を降りていきます。

 

政府軍の銃弾を受け、仲間達はどんどん倒れていきます。

 

それでも進み続ける西郷でしたが遂に西郷にも最後が訪れます。

 

島津応吉久能邸門前で、

ついに流れ弾は西郷の肩と太ももを貫きました。

 

その場に倒れこんだ西郷は死ぬ事を決意しました。

ここが西郷隆盛最後の場所となりました。

出典:goo.gl/53dXg3

西郷隆盛最後の言葉

被弾した西郷は、負傷をして駕籠に乗っていた別府晋介にこう言います。

「晋どん、晋どん、もうここでよかろう」

と言いました。

 

これが西郷の最後の言葉となりました。

西郷は跪座(きざ)し、襟を正した。

※跪座はつま先を立てた正座の事。

そして、はるか東の方角に拝礼した。

別府晋介は、

「ごめんなったもんし」と叫び、西郷を介錯した。

(お許し下さいと叫んで西郷の首をはねた)

午前7時を少し過ぎた時刻でした。

 

別府晋介もその場で切腹しました。

※西郷は腹を切っていません。

 

西郷の首は戦闘後に発見され、政府軍の指揮をとっていた、

山県有朋が検分が終わった後に手厚く葬られました。



侍の時代が終わった

西郷さんは、自ら進んで反乱を起こしたのではなく、

自分の元に集まった士族達の命をかけた明治政府への抗議を、

見捨てる事は出来なかったのですね。

それで立ち上がったわけです。

 

新しい時代がやってきて、

行き場のない士族達は相当強い不満を抱いていたといいます。

お金も刀も奪われたわけですからね。

 

そんな士族達のシンボル的な存在だった西郷さん。

 

西郷さんの最後はお伝えしたとおりですが、

死ぬ事によって自ら武士の時代に終止符を打ったとも取れますね。

 

まさにラスト・サムライという感じがします。

 

かつての盟友大久保利通も、西郷さんが亡くなった翌年に亡くなっています。

大久保利通を暗殺したのは、明治政府に不満を抱く不平士族でした。

 

この時期、幕末に活躍した西郷と大久保という二人の英雄は姿をけしました。

あの世で再会した二人はどんな話をしたのだろうか。

西郷隆盛をもっと知りたい

そんな方にオススメの書籍です。

命もいらず 名もいらず 西郷隆盛

 

 

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