井伊直弼暗殺のピストルの秘密、桜田門外の変は2度目の暗殺?

2019年11月21日

先日昔録画した歴史物のテレビを久しぶりに見て面白い内容だったので、

紹介したいと思います。

 

その内容は桜田門外の変についてです。

桜田門外の変とは、幕末、幕府の大老井伊直弼が、

江戸城桜田門の外で水戸藩氏達に襲われ殺されたという事件です。

出典:goo.gl/1qX2AJ

当時の様子はドラマや映画などで何度も再現されていて、

結構有名なのですが、

その今回紹介させていただく話は、

今までの定説とされる桜田門外の変とはちょっと違っています。

 

というのも、近年この事件の時に使われたと見られる凶器のピストルと、

襲撃に加わった人がその様子を詳しく書いた資料が発見されたからです。

 

その拳銃は箱に入っていて、箱書きには、

「直弼公天誅の短筒」(なおすけこう てんちゅうのたんづつ)と書かれています。

 

そして、桜田門外の変の詳細を記した新資料の発見、

襲撃に参加した人物が記した物で絵入りで詳しく紹介されているのです。

 

その新資料を元にこの番組は桜田門外の変を検証するという面白い内容でした。

今日はそれを紹介します。

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井伊直弼の暗殺に使用されたピストルの秘密

桜田門外の変に参加した人

まず、この井伊直弼暗殺計画に参加した人を紹介します。

首謀者

高橋多一郎

金子孫次郎

襲撃者

関鉄之助

森五六郎

岡部三十郎

稲田重蔵

山口辰之介

鯉淵要人

広岡子之次郎

佐野竹之助

斎藤監物

黒澤忠三郎

大関和七郎

蓮田一五郎

森山繁之介

杉山弥一郎

広木松之介

海後磋磯之介

増子金八

有村次左衛門

この桜田門外の変に参加した人達は目的を達成した後、殆どが直ぐに死んだが、

この中で生き残った人がいます。

 

海後磋磯之介(かいご さきのすけ)と増子金八の二人です。

その二人のうちの海後磋磯之介が、

この桜田門外の変の事を詳細に書いた絵巻が、

発見されました。

この人物は桜田門外の変に参加した後、

逃げて潜伏を続け、ほとぼりが冷めてから故郷に戻り、

警視庁や茨城県庁に勤め、退職後は神主になった人です。
なんと76歳まで生きたのです。

 

この資料に書かれている事で、

今までの桜田門外の変の話として語られていた事と違う箇所が出てきます。

 

それは、この桜田門外の変で使用された拳銃についてです。

従来の桜田門外の変では銃は戦闘開始の合図として用いられた。

誰が発射したかは謎とされていました。

 

しかし、この絵巻にはハッキリと誰が撃ったかも書かれていた。

しかも、この銃撃は単なる戦闘の合図ではなく、

井伊直弼を狙って発射されており、井伊直弼に命中しているのです。

ピストルを撃ったのは誰だ?

では、この巻物に書かれている内容を見ていくと、

襲撃当日の役割が細かく決められている事が分かります。

襲撃の役割

1.斬り込み役が行列をストップさせる

2.三人の援護役がこれを助ける

3.駕籠に乗っている井伊直弼をピストルで撃つ

4.それを合図に他の者が一斉に斬り込む

という流れになっています。



当日の流れ

斬り込み役が行列の前に何かを直訴をするふりをしてストップさせます。

行列の前で土下座します。

「下がれ!」

とこれを制止しようと彦根藩士が近づくと、

斬り込み役がいきなり彦根藩士に斬りかかります。

 

そして援護役が戦闘に加わって行列の先頭を撹乱します。

 

井伊直弼が乗る駕籠の周りにいた人達も、

その行列の先頭に駆けつけます。

 

そうすると、井伊の乗っている駕籠はガラ空きになります。

 

その駕籠に脇から一人の男が近づく。

森五六郎(もりごろくろう)です。森五六郎は直訴状を持って近づき、

その直訴状の下にピストルを隠していました。

 

低い体勢から発射されたピストルの弾は、

駕籠の中で座っていた井伊直弼の太ももから、腰までを撃ち抜いた。

 

この森五六郎のピストルの発射を合図に襲撃者達が一気に襲い掛かります。

直弼は銃撃により身動きできず、

駕籠から引きずり出され、首を取られました。

 

彦根城に運ばれた井伊直弼の遺体は、

常駐していた医師岡島玄達が検死しました。

直弼の遺体には銃で撃たれた痕跡がありました。

 

従来の映画やドラマでは拳銃は単なる合図の役割だったのですが、

井伊直弼に致命傷を与えていたのです。

 

桜田門外の変で襲撃に加わった者達は殆どが深手を負って逃亡を諦めて捕まっています。

直弼を撃った森五六郎も捕まっています。そして尋問記録には、

鉄砲所持 森五六郎と書かれています。

この時の取り調べの時に森五六郎が持っていたピストルは行方不明でした。

戦後GHQが没収してアメリカに持って行かれてました。

そのピストルが日本に帰って来ていました。

 

その箱書きには、

「森五六郎義士 直弼公天誅の短筒」と書いてあります。

出典:goo.gl/P85yjb

 

森五六郎が直弼を撃ったピストル

 

ピストルの形は西洋風ですが、

その表面には桜の文様がビッシリと彫り込まれています。

 

グリップには純銀と紫檀を使用していて高級な作りになっています。

高価な材料と手間が惜しげも無く使われたこの拳銃、

持ち主はよほど財力のある人物だと推測できます。

 

襲撃した森五六郎は水戸藩の下級武士にすぎません。

なぜ森五六郎が持っていたのでしょう。

 

実はこの桜の拳銃と形も大きさも全く同じ拳銃が記録に残されています。

それはコルト社製の51ネイビー。

 

1851年に造られた当時の最新の連発銃です。

 

森五六郎のピストルはこの51ネイビーにとても似ています。

 

実はこの銃桜田門外の変の6年前、

ペリーが黒船に乗って日本に開国を迫ります。

 

この時ペリーが日本に持ち込んだ物を絵師が書いた絵巻の中に、

この銃がありました。

 

ペリーが持ち込んだピストルと形も大きさも同じ。

 

この桜の銃はペリーの銃のコピーと考えられています。

 

銃には彫刻した人物と製作者の名前が彫り込まれている。

製作者 中澤晃敬

彫工 鎌田壽次

何人もの職人がこの拳銃の制作に携わった事がわかりますね。

 

誰がこの銃の制作を命じたのか?
それはペリーの拳銃を手にする事ができる人物のはずです。

 

ペリーが残した日記にはこう記されています。

拳銃20丁の軍用拳銃をエンペラーに献上した

 

そうなると、

徳川御三家の内、

森五六郎がいた水戸藩に君臨した人物という事になりますね。

 

副将軍とも呼ばれていた。徳川斉昭です。

徳川斉昭に渡された銃?

徳川斉昭は、大老の井伊直弼と幕府の外交方針で意見が対立していた人物です。

直弼は開国派
斉昭は攘夷派(外国人を討ち払って日本に入れない)

斉昭は攘夷を実行するために着々と準備を進めていました。

 

斉昭が水戸藩内に新たに建設した施設の記録。

神勢館という施設の絵図があります。

 

神勢館は斉昭が大砲や鉄砲を製造した場所との事で、

本格的な兵器工場です。

その一角に小銃制作場と記されています。

 

ここで、欧米の銃を複製量産していたと考えられます。

 

斉昭は別のタイプの銃もコピーしていました。

それも残っているので、
銃をコピーしていた事は間違いありません。

 

そして、もう一つの斉昭の思想が、

尊王です。(天皇を尊ぶ思想)

 

ピストルの一面に彫り込まれた桜に、

どんな意味が込められているのでしょうか?

 

そのヒントとして、

幕末に斉昭が作った茶入れが発見されています。

 

そこには、桜が施されています。

花弁の中に長い雄しべがあしらわれた山桜のデザインは、

拳銃の桜と酷似しています。

 

その茶入れの入っていた箱には、

後醍醐天皇の吉野の山にあった竹を用いて作ったと掘られています。

斉昭は後醍醐天皇がいた吉野に憧れを持っていたそうです。

 

という事で吉野の桜を茶入れにほどこしている。

天皇家に対する想い、

吉野の桜に対する想いがこの銃の桜の文様に繋がるのではないでしょうか?

 

井伊直弼は、そんな斉昭とは真逆の考え方の持ち主で、

開国を孝明天皇は反対していたが、

幕府単独でアメリカと貿易の条約を交わします。

そして、その事に対して不満を募らせる尊王攘夷派達を、

井伊直弼はどんどん弾圧し始めます。

安政の大獄です。

 

斉昭子飼いの水戸藩氏達も次々と処刑されます。

斉昭も将軍の名前で蟄居を命じられました。

 

蟄居中斉昭は側近を呼び寄せます。

 

幕府に禁止されている危険な行為です。
呼び出されたのは高橋多一郎です。

 

その時、

斉昭は高橋多一郎に短刀と、

拳銃を渡したと思われます。

井伊直弼は1年前にも襲われていた

桜田門外の変の1年前の記録に、

井伊直弼が銃撃された事が記録に残っている。

そこに書かれているのは、

この一件は森五六郎の仕業である

 

桜田門外の変以前にも、

少なくとも一回銃による襲撃事件が起こっている。

その犯人が森五六郎というのです。

 

その時の襲撃は失敗、

江戸城の外堀に森五六郎は飛び込んで逃げ延びました。

 

森五六郎の襲撃失敗の直後に、

襲撃グループの間で交わされた手紙も残っています。

 

佐野竹之助から高橋多一郎宛ての手紙です。

 

手紙の日付は安政6年4月21日付

「かねてより森氏苦心の件、失敗。

いよいよ最後の手段によって赤鬼退治したき決心」

 

もちろん赤鬼は井伊直弼を指す。

 

一回目の失敗を踏まえて、

確実に目的を達成する為に綿密に計画が練られた。

そして、安政7年3月3日の朝がやってくるのです。

彦根藩の行列は約60人。

 

実行犯は18人だが、二人は戦闘に参加していないので、

僅か16人で井伊直弼の首を取ったのです。

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Posted by マミ